遊風の養生日記Ⅱ

術伝流の愉癒庵遊風(颶風颯雷電)が、鍼灸操体食養はじめ養生について書いていきます

学院派中医、科学的か、風化か

 学院派中医は、形而上学的整合性はとれているけど、体という自然をあつかう臨床の理論としては使いにくかったので、風化しつつあるように思っています。


 少なくとも加茂先生の恩師のドクターズルール10の特に2のような視点で臨床していて、臨床経験を帰納して理論を再検討する習慣を持っていれば、臨床経験を積めば積むほど学院派理論に疑問を持つ方が多くなるのではないかなという感じで見ていました。
「2.臨床的証拠がないからといって、病気が存在しないという証拠にはならない。患者の訴えは正しいものである。医学的にあり得ないと考えずに、訴えに耳を傾けること。患者は全身で24時間、疾病と対決している。」
ドクターズルール10については、以下を参照してください。
http://d.hatena.ne.jp/kuhuusa-raiden/20090529


 私は、学院派理論は、東洋医学の伝統よりも毛思想の影響のほうが強いと思っていましたし、少なくとも臨床を帰納して作られた理論ではないので臨床の場では矛盾が出やすく、しかも臨床経験をもとに修正しにくいだろうなと思って見ていました。このあたりは、私がエキスパートシステム、つまり、コンピュータに専門家の代役をさせるシステムにむかし関わっていたことも関係していると思います。学院派中医は、はじめはコンピュータに載せやすいけど、現場の経験を元にそれを修正するのは、とてもやりにくいだろうなという感じです。現場体験を帰納してのシステム再検討に耐えられずに失敗したエキスパートシステム(アシスタントにもなれなかったもの)を多く見てきたうえでの感想です。形而上学的整合性はとれているけど、現場体験とのコミュニケーションが取れない典型例に見えました。その点、吉益東洞の薬徴などのほうが、最初はコンピュータに載せにくいけど、現場体験を帰納してシステムを再検討し修正するのはやりやすそうだなと思いました。臨床の場など自然相手に結果を求められる場合には、数学などもふくめて形而上学的整合性の高い理論は、そのときその場で、目の前の方の体という自然のそのときの状態にも使えるかどうか検討しながら使ったほうが良いものだと思うし、使えないという経験が積み重なれば、風化していくのもやむをえないように思います。形而上学的整合性が高ければ高いほど、目の前の自然のそのときの状態からかけ離れている度合いも高くなるわけですから。


 私は、本場中国の臨床の場で学院派理論を使う方がほとんどいなくて、日本の医師で学院派用語を使う方がどんどん減っていることを考えれば、今の時点で学院派用語を使わないで説明する準備を始めたほうが良いと思います。しかし、予想は、当たるも八卦当たらぬも八卦の世界ですから、どう判断し、今後どうするかは、それぞれの人が決める問題だからなーと思って、今後の成り行きを見ています。学院派中医はグローバルスタンダード化していくそうですし。さて、どうなりますか。


蛇足1:逆に、瞑眩という用語を使う医師の方は増えているように思います。例えば、安保福田理論の福田稔先生、以下参照。
http://d.hatena.ne.jp/kuhuusa-raiden/20081009


蛇足2:EPA関係で中国と交渉する際には、アニメや漫画の海賊版問題や農産物の産地名問題(「中国 青森」「中国 松坂」で検索してください)も当然話題になるでしょう。そのときに中国側が出して来るとしたら学院派用語の日本での使用かなと思っています。20世紀後半以降中国発の用語で日本で使われているものが、他にはあまり思い浮かばないものですから。