遊風の養生日記Ⅱ

術伝流の愉癒庵遊風(颶風颯雷電)が、鍼灸操体食養はじめ養生について書いていきます

病理医7N4WCUさんのチェルノ関連0824ツイートまとめ

7N4WCU(広河隆一著・チェルノブイリ報告)「病気になった子供が汚染地域出身でないと言ってみても、明日にはその地域が汚染地区になってしまうかも分からないのです」とオルガは言う。
 セルゲイは8歳だ。ミンスク出身で、病気になって3年半経つ。症状は急性白血病。初めの頃、医者たちはこの子の病気とチェルノブイリ事故との関係をけっして認めようとしなかった。しかし、いまではすべての医者がチェルノブイリのせいだと認めるようになっている。
 ソ連邦チェルノブイリ同盟代表ヴラジミール・ショカシェド「チェルノブイリ事故は、私たちにあと何年の生が許されているかを数える起点です。特に子供たちにとっては」
 (広河隆一氏) チェルノブイリが投げかけるもう一つの問題は、電気が「住みやすさ」の追求の産物としてもてはやされて、特に日本はその物質文明の頂点にある国になってしまっているのだが、はたしてそれが私たちの求めていたものだろうかという問題である。
 有機農業をするマンフレッド氏「今の世の中は物質至上主義とそれに伴うエゴイズムが極端になって、もう一線を超してしまったのではないか。物質を追いまくって頂点に達し、あるラインを超えた。ここまできたらもうお金で何を買っても自分たちの求めているものではなく、残るのはエゴイズムの塊だけ」
 マンフレッド氏「もしドイツで事故が起きたら、ウクライナよりずっと人口密度が高いわけで、もう自分たちに逃げ場はない。そう考えたら、日常生活の中で汚染されているものを食べないということだけでなく、もっと大切なことは事故を二度と繰り返さないということ。だから原発を止めることしかない。」
 ウラルの核惨事(1957年)とチェルノブイリ事故。両者で悲劇が最大規模になり、しかももう取り返しのつかないほどまでに深刻化してしまったその原因は、核を取り巻く秘密主義だった。政治家と科学者と事業体と医者が利益を一つにするかのように動いた。それはソ連だけに限ったことではない。
 手をこまねいて死を待つだけでも大変なのに、急性リンパ性白血病で亡くなったディマは解剖に回され、頭部にメスが入れられた。キエフのスヴェトラーナの場合と同じだった。両親は強硬に抗議し反対したが、この病気の子供はすべて解剖するという行政命令があるといって強制的に解剖がおこなわれた。
 ミンスク第一病院小児血液病センターで亡くなったディマの両親「私たちが住んでいた場所が放射能で汚染されているなんて、誰も教えてくれなかったのです。息子のディマはその村が気に入って、森の中で遊びまわっていました。」
 「私達はずっとミンスクに住んでいました。ディマもミンスクで生まれました。親戚がミンスクの西マスティーシュ村に住んでいて、昨年、私達はその村に夏から冬の初めまで子供を連れて行きました。しかしその地域は汚染されていたのです。当局はその事実を隠し続けて、つい最近やっと公開しました。」
 核爆弾と原発。両者を初めて製造したのもほぼ同じ企業だと知った。米国で核爆弾を製造した企業はやがて日本に原発を売り込み、わが国でも核爆弾の威力に感銘を受けた政治家の力で原発予算は国会を通過した。知れば知るほど私(広河隆一氏)の「核の平和利用」に対する不信感は大きくなっていった。
 (広河隆一氏「チェルノブリ報告」から) チェルノブイリ事故を知れば知るほど底なし沼のように、恐ろしい核事故の深淵が広がっているばかりである。以前より今の方が理解していることといえば、この問題の恐ろしい規模が、以前考えていたよりも深く、そして広いということだけだ。
 検知器を通してしか身に迫る危険を判断できないという経験は、人類の歴史上初めてなのではないだろうか。疫病は病原菌が人間の目に見えないということがなければ、あれほど怖くはないかもしれないが、放射能はそれをはるかに超える不気味さで人間に迫ってくる。人間の五感ではまず感知不能なのだ。
 87年11月・旧西ベルリンの民間放射能検査所「穀物は今でも危険な値が続いています。肉も汚染はまだひどい状態です。特にひどいのは牛肉で、キロ当たり70ベクレルとかそれ以上のものもあります。ワインやビールはかなり汚染が低いです。ワインではぶどうの皮の部分にたまり、皮を取るからです。」
 87年11月・旧西ベルリンの民間放射能検査所「もうひとつ心配なのは淡水魚です。私たちはポーランドやドイツやスウェーデンノルウェーで測りましたが、どこも汚染はひどいものでした。しかもこれからどんどん汚染値が上がっていきます。魚の体内に放射能が濃縮されていくのです」
 87年11月・旧西ベルリン民間放射能研究所ベルント所長「無農薬の自然食品の店が西ベルリンには何軒もあって、そこのものも測っていますが、そうした店のほうが普通の店よりずっと高い汚染値を示す場合が多いのです。穀物の場合は特にそう言えます」
 ベルント所長「大企業の場合、汚染のひどいものと低いものとを混ぜ合わせて、平均値を低く押させるといったことが可能なのです。そこに売っている農家は知らぬ顔です。ところが生産者と消費者が直接結びついている有機農業の人たちは、そんなことができない。だから汚染値は高いままなのです」
 86年5/4の午後(旧西ドイツの)この地域に6ミリの雨が降った。チェルノブイリ事故(4/26)後初めての雨だった。翌5日の夕方に16ミリの雨が降った。5月初めは冬の間小屋に入れていた牛を外に出す時期だったが、5日に西ドイツ連邦政府は、できるなら牛は外に出さないほうがいいと述べた。
 旧西ドイツ、有機農業マンフレッド・エセリング氏 「ある人は『そんな放射能なんてみんな騒いでいるだけで全然問題ない』と言って、雨の降った月曜日に牛を一日中外に出しました。私の隣の農家では『半日だけ出してみるか』と言って、そうしました。私は全く外に出さなかった」
 97年11月・旧西ドイツ・マンフレッドの妻「ちょうど事故の起きた時、私は妊娠5ヶ月でした。最初のうちはイチゴは食べないとか、いろいろ気をつけていました。今年の春『このあたりで取れる野菜はいっさい食べるのはよしなさい』と私の産婦人科医は言いました。」
 有機農業のための土壌を作るには10年近くかかるという。マンフレッドが何年も何年も手塩にかけて育て上げてきた農地は、たった一回の原発事故で一瞬のうちに無残にも汚染されてしまったのである。
 86年5月8日ミュンヘンで舗装道路の計測が行われた。すると1平方メートル当たり15000ベクレルというとんでもない値が出た。「にもかかわらず、その日政府は公式に、もう危険はなくなった、子供たちも外に出て遊んでもかまわない、何を食べてもかまわない、もう大丈夫だ、と安全宣言を出した。
 西ドイツ牛農家マンフレッド「実はこの村で、放射能なんか大丈夫と言って牛を外に出し続けた農家の妻は、牛を外に出していない隣の人のところに行って、自分の小さな子供のための牛乳を貰っていたのです。毎日子供に接している女の人は、危険を肌で感じ取っていたのです」
 86年5月2日(金)にトラクターに乗って仕事をした。すると放射能を浴びたときになる症状だと聞かされていた軽いやけどのようになり、頭も咽も痛くなった。ちょうど強い日差しを浴びたときのような症状が出た。雨が降ったときに外で遊んでいた子供たちの中に同じような症状を訴えた子もかなりいた。
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 早川由紀夫先生が示されたチェルノブイリと福島の比較地図。汚染された面積は見る限り日本のほうが狭いが、確実に強制退避エリアが福島県中通り福島市郡山市)に出現している。広河隆一氏の著書を読んだ後だと、限りない虚無感に襲われる。 http://blog-imgs-15-origin.fc2.com/k/i/p/kipuka/fukch4.gif
早川先生の地図を見る。すると、この期に及んで「不安を煽るな」とか「放射能対策の怪しい科学退治」に躍起になっている連中は、つくづく無視&ブロックするしかないと確信。そして彼らの非難の矛先は被災地住民の「疎開」「移住」「退避」という“センセーショナルな”行動に向けられていると感じる。